平成最後の断捨離、と意識したわけではないのだけれど、今朝、書籍を整理してみました。以前から気になっていて、ようやくその気になったのがたまたま平成最後の日でした。

なんだか平成最後の日に、と力んでいるようで気恥ずかしいのですが、別にたまたまのことですし、たまたまその気になるのがそもそもこういう区切りのいい日なのかもしれません。

つまりは平成最後の日ということをどこかでばっちり意識していて、たまたまと言いながら見事にそれに踊らされていることになります。踊るのは嫌いじゃないから、とにかく踊ってみました。

 

 

書籍の断捨離はおそらく2年ぶりくらいでしょうか、とりあえず4つある本棚の中身を全て床に積み上げてみたら足の踏み場がなくなって、なおかつ目に触れるタイトルがどれも良さそう、こんなもの果たして整理できるのかと不安を覚えつつ、2〜3年の経過が自分に何をもたらしているのか確認するいい機会にもなるだろうとワクワクしました。

 

ここ最近はほとんど紙の本を買うことをしていません。

ビジネス書や実用書はいずれ捨てることが目に見えているから最初から電子書籍にしているし、漫画も嵩張るから電子書籍でしか読まない、紙で読むとしたら辞書や全書、図鑑、小説、詩集、電子書籍化されていない文芸書や学術書くらいですが、それらは整理対象になり辛いので、結局は2〜3年前には納めなかったものを今になって納めるのが整理の中心になりました。

 

整理対象になったのは、やはりビジネス書や実用書が多かったです。古くなるスピードが早く、再読に耐えうる強度に乏しい。

そんな中でもいくつかのビジネス書はしぶとく残っていて、古びない思考法や哲学に改めて感嘆しました。ビジネス環境は恐ろしいほどのスピードで変化していますが、その中にあって古びることのない強度をもった思考法や哲学は確かに存在しますし、それらの原典を探ってみると核となる考え方はさらに数百年も数千年も前からあったりするものだから、人類の叡智には全く畏れ入ります。

科学技術や各種システムは確かに進歩していますが、生き方や考え方において果たして進歩しているのかと問われれば真実怪しい気がしました。

 

一方で、整理対象になり得ないのは、人からいただいた本でした。

ぼくの本棚にも何冊かいただいた本がありまして、その中でも次の3冊がぼくの心を捉えました。

 

 

1冊目は革のカバーに覆われたコーランです。(写真左)

これは2010年にバングラデシュを旅していたとき、ダッカから国境に向かうバスの中で知り合ったムスリムが首から下げていた布袋ごとくれたものです。

 

ぼくはダッカにあるカックライルというモスクで3日間の修行を終えたところでした。バゲルハットという都市で1人のムスリムと出会い寝食を共にし親友になったことで、彼やイスラム教についてもっと知りたい理解したいと思ったことが修行のきっかけでしたが、実際のところは修行というよりただの滞在に近かったかもしれません。ぼくも別にイスラム教に帰依したわけではありませんでした。

それでもカックライルは世界中のムスリムが修行に集まるモスクです。バスで隣り合ったムスリムはぼくがカックライルに少しのあいだ滞在していたことを知ると驚き喜びました。そしてぼくがコーランを持っていないことを知ると、即座に自分が首から下げていたコーランをぼくに握らせました。

 

今度はこちらが驚き慌てました。ぼくがムスリムではないこと、ムスリムの親友がいて彼の考え方を知りたかったからカックライルで学んだに過ぎないこと、そもそもアラビア語は読めないのでこんな大切なものをいただくわけにはいかないことを伝えましたが(だってコーランは聖典であり彼はそれを後生大事に身に付けているのです)、彼は微笑んで首を横に振りました。

そして、「異国の地から来た君がアッラーの神に出会えたことに感謝したい。イスラム教の教えに触れたことを祝福したい。この瞬間に立ち会えたことが嬉しい。おめでとう」と言って、コーランが入った布袋をぼくの首に下げてくれました。

 

 

ぼくはアラビア語が読めないので、未だにこのコーランを読めません。中にどんなことが書かれているかもよく知りません。ただ、モスクに響くその音がすごく美しいことだけは知っています。

 

2冊目は白紙のノートです。(コーランが写っている写真右)

これはバゲルハットで出会った件の親友がくれました。

 

 

ノートをくれるとき彼は「このノートに君の日々の気付きを書いてくれ、そして再び出会ったときにそのノートをぼくにプレゼントしてくれ。その日を楽しみにしている」と言いました。

ぼくたちはその1年後に再会しました。ぼくの結婚式にも来てくれました。会うたびに朝方まで話し込みます。話したいことは沢山あります。

 

それでもこのノートの話はまだしたことがありません。ノートはずっと白紙のままです。いつかこのノートにぼくが何かを書きつけ、彼に返すときが来るのかもしれません。

 

 

3冊目は「質問」という本です。これは15年ほど前、大学時代の友人が引っ越すときにくれました。いや、ぼくが引っ越すときだったかもしれません。

 

本をくれるとき、友人は「これはとてもいい本だ」と言いました。めちゃくちゃ仲がいい友人というわけでもなく、たまに家で飲むこともある程度でした。ここ数年、連絡もとっていません。

 

ぼくはこの本の数ページしか開いたことがなく、数年に一度何かの折に、それこそ引っ越しの際などに数ページ開き、何事か考えて、また本棚に戻すということを繰り返してきました。

おそらくこれからも読み通すことはありません。だけど、友人の言う通り、とてもいい本なんだと思います。

 

3冊ともぼくが読むことはない本たちです。

ビジネス書のようにすでに何度も繰り返し読んだり情報が古びたりしたから読まないわけではなく、そもそも読むことのない本たちです。

 

だけどこれらを納める(捨てる)ことはこれからもないのだろうと思いながら、段ボール1箱分の書籍に感謝と別れを告げ、平成最後の日を終えました。

 

読まない/読めない本というのは、意外と私たちにとって重要なものなのかもしれません。

 

(代表 杉本)